昭和46年03月29日 朝の御理解



 御神訓 一、「障子一重がままならぬ人の身ぞ。

 御理解 第31節
 「信心を頂く者、信心の稽古をさして頂く者、いわゆる根本姿勢だと思いますね。障子一重がままならぬ身と。」

 段々おかげを頂きますとですね、例えばこの障子の向こうに誰かが居ると云う位な事は、段々分かるようになるものです。そういうものではないですね。そういうものではありません。もうあの椛目時代でしたが、古賀先生のお母さんが熊本から初めてお参りをして来た時。皆さんもご承知のように御結界、そして向こうの方が楽室、私の控えでございました。丁度夕方だったでしょう、誰かのお取次を頂いてから、ここでお取次を頂き終わる、誰か参ったかなと思っとった、私は控えで(お届けを)頂きよった。
 そしたら熊本の氏子と頂いた。それで丁度ここでお取次を頂き終わられた時に、熊本の御信者さんどうぞこちらへと私が申しましたら。もうそれがびっくりしたんでしょうね。全然その熊本から参って来たとも、また私は障子の一重向こうの方へおる。楽室の方ですから、あれがあの合楽当時の椛目へお参りして来てから、一番初めにほうと云うなら、びっくりしたんでしょうね。それでこれは神徳じゃない。一つの霊徳です。そういう事があるのはありますよね。だからそういう事ではないのです。
 この頃、婦人部会の研修会の日でしたかね、私、こちらに座っておったら、こちらで、障子の向こうの方へ、田中さんが居られることに気がついた。田中と頂いた、いわゆる、障子の向こうでお話をこうして一生懸命頂いて居られる姿を見て、田中さんだった。だからね、そう云う様な、云うならば、稽古に依ってね、障子一重向こうに居る人が分かったり、いろんな事があると云う様なことはありますよ。
 だからここで障子一重がままならぬ人の身と云うのは、そう言う事ではない事が分かります。心が知られて居ると云う事はね、そう言う事ではないのです。今私が二つの例を申しました。私が障子一重向こうの事が分かっとったもんその時。だから教祖の教えて居られるのは、そう言う事ではないと言う事。障子一重がままならぬ人の身、ここんところにです、私はお道の信心の稽古をさせて頂く者の根本姿勢と云うもの。
 私は、何が怖いと云うても、人間の思い上がり程怖いものはないと思う。又こんな見苦しいものもありませんね。思い上がった態度、思い上がった言葉遣い、実に嫌なキザなもんですよね。ですから、信心さして頂いて居ると、段々その実意丁寧神信心と云う、教えられるもんですから、その言葉形にはですね、それこそあなたこなたと云うて、よう御本部辺りで、見聞き致しますですね。
 実に地を低うして、なんかいわゆる、金光様の御信心振りと云った様なものが、形だけにしか現れていないと云った様な傾向が強うなって来るから、それでもいけないのですよね。心が何時も、いわばへりくだっておると云う、心が何時も実意であると云うこと。いわゆる謙虚であると云うこと。だから障子一重がままならぬ人の身と云うことは、私共の、いわば無力さ加減と云うものをです、いよいよ分からせて頂くことだと私は思うです。いわゆる我無力であります。
 もう十何年も前だったでしょうか、久富先生の所に、私が書いた短冊を差し上げたことがあった。だからあの表装になっておる、あの短冊掛けと一緒に差し上げた。それはもう、神様からお知らせを頂いてね、書かせて頂いたんですけれども。こういう、云うならサインなんです。まんまぁるく輪を書いて、中にちょっと点を置いて、中にいち棒がこうやって長くこんな、こりゃ、この通りの事を神様から頂いてから、こりゃもう私の一つのサイン代わりに使わせて頂いております時々。
 だから私はこの丸い云うことを、私はこれは宇宙と云うか地球と云うか、いわゆる広大無辺な、この地球のことであるとこう思いました。そこにちょっと点で押しただけでの、点が押してあるのは、これが私。もう私の存在等と云うものは、それこそ一滴の水である。云うなら一粒の浜の砂の一つがたもない私だと云うこと。それなんか自分がそれこそ世界にのさばって居る様な人がありますよね。
 下に一とこう書いてあるのは、ただ自分にあるものは、信一つがあるだけなんだ。信あるのみなんだ。と云う風にそういう詩の様なものを書いて、このサインを書いて差し上げております。自分と言うものはなぁにも出来ない、それこそ無能無力の我であると云うこと。天地にいわばこの天地の姿、この丸い姿の中に、自分があるのは、それこそ一粒の砂のがたもない位な私だと、こう云う訳なんです。
 只あるものは信あるのみである。それは神様を信ずると言う事、その事だけが一つ私にはあるだけだと云う意味の御理解だった思います。丸書いてちょんと下に一棒是はそれなんです。にも関わらずいかにも私が出来たように、いかにも私でなきゃならん様に、いわゆる私がと云う我が、そこに一杯にのさばって来ると云う事がある。如何に怖い事かと云うことを私共は知らなきゃいけないと思うね。
 障子一重がままならぬ人の身と云うことは、障子一重向こうの事が一つの透視ですかね、そういう事が出来るとか出来ないと言うそういう事ではない。障子一重がままならぬ人の身と云うのは、所謂我無力であると言う事を知る事なんだ。それに自分で何でも出来とるように思う自分がしたと思うておる。是は私はねこの辺の所を良く分からせて貰わにゃいけんと思う。私が私の金で買うたんだ買うてやったんだと。私が使うて居るんだと、私が給料を出して、私がこの人を使うて居るんだと。
 けれどもこの辺の所をね良く分かりませんとです、本当にいわば使用人一人の事でもです働いて貰っておる、働かせて貰って居る者はいわゆる働かして貰うて居る、働いて貰っておると両方からね、働いて貰ってるんだ働かして貰って居るんだと言うところからです、両方から拝み合いと云うか、会社を支え合うと言う事になってくるのです。でも俺が金で俺が使うて居る、俺が金で俺が買うてやっっとる、もう本当そうなんです。
 先日も学院生あちら本部に参りますのに、直子などはもう高校出たばかりで洋服一つ作って居りません、何も持ちません。それがもい良い明日と言う事になってから、その何を着て行こうかとこう云いよります。丁度そこへあの新聞をこう見たら、久留米ダイエーの大売り出しの広告が出てました。それから家内にお前が今日は直子を連れて、まあ出来合いち言うかね、既成品のそれでもいいから買うてやったらよかと云いよりました。
 でも私はお爺ちゃんが、あんな具合いが悪いから行かれませんよと家内が云いよります、ほんなら公ちゃんなっと一緒に行って貰おうか。高橋さんが送ってやると云いよりなはるからと云うて。昨日もう全然、柄見やらも出来んし。どげな奴買うて、それに書いてあるとが、女の人形さんに着せてある洋服が、千八百円ち書いてある。ほうらこげな安かつがあるなら、これを買うがいい。
 ほんならこれを買え、今日からの奴じゃけん、早う行ってから、それを買えと云うて居りました。それでもその、やっぱり私に来てくれとこう言う、私にちょっと、見立てて呉れとこういう訳。それから私は、繁雄さんに、ほんならお金を高橋さんに渡しておいて下さい。私が行かにゃならんからと云うて、ここの御用を終わらせて頂いてから参りました。初めてダイエーに行った訳です。
 そしたらもう千八百円の洋服なんかありません、売り切れとったつでしょう、もう出て居りませんでしたから。それからまぁ、いよいよ買わして頂こうということになりましたらね、やっぱその二千円三千円の奴よりも、よかつのがよかもんじゃから、結局まぁピッタリ二人のものに、都合よかつがありましたから、公子さんと直子と、まあ必要なものだけを買わせて頂いた。洋服、二人の洋服。
 それから時計が必ず要りますから、二人の時計を一つずつ、万年筆が必ず要りますから万年筆一本ずつ、それから靴を一足ずつ、それだけ買わせて頂きました。帰らせて頂いてから、あのお金がどげんなっとるじゃろと思ったら、キッチリ四万五千円やっちょりました繁雄さんが。ほう四万五千円もやってから、馬鹿じゃなかじゃかと、私は、繁雄さんのこと云いよりました。
 洋服いっちょで四万五千円もやっちからと言いよりましたけど、結局買うて仕舞うたら四万五千円でした。勿論その四万五千円の中には、私が、なにも切符から何から一切買っておりますから、途中の小遣いに三千円ずつ、二人にやるごとしてありましたから、その三千円ずつの六千円を二人に三千円ずつやって、あとはきれいに、だから三万九千円ですかね、キッチリそれだけ買っておりました。
 それで私、公子さんに云うですたい、親先生有難うございます、親先生が買うてやったっじゃなかち言うこつが分かろうがのと、私が申しました。これはね結局神様が下さったんだと云うことじゃないか。私はそういう時にね、私がなどを出そうようがありません。私が買うちゃった、私が金で私が買うちゃった。そこにはもう値打はないですよね。今日も見てごらん、あなた方がさぁ明日から学院に行かにゃならん。
 洋服を買い靴を買い来させて頂いたら、キッチリ四万五千円が、きれいにあのだから、繁雄さんが出してやられた四万五千円と云うことも神乍らであったなら、買わせて頂いたことも神乍ら。そこで分からせて頂くことは、親先生が買うてやったつじゃあない、神様が買うて下さったんだなと云うことが分かろうがと云うて申しましたことですね。事実はそうなんです。そこのところにですね。
 私はほんとに障子一重がままならぬ人の身である、いわゆる自分には何の力もない私があるという自覚が、その信心の根本姿勢のところに出来て居らんとです、いうなら、私がが、出て来る訳です。小倉の桂先生がまだ( ? )の頃、神様からお知らせを受けられた。四神様、二代金光様のご時代ですよね。もうそれは四神様のご身辺の事から何から、お世話をされて居られた大変おかげを受けられましてね。東京の当時やはり千両役者まではいっとらんけれども、八百両まで位はいったと云う。
 中村駒之助と云うまあ役者が居られました。その方がお芝居中にですね。宇都宮の吊天井と云うお芝居をして居られる時に、ぶら下がって吊り上げられて下に落ちてからもう無い命の所を、金光様のおかげで助かったと云う方です。以来もう役者を止められましてね、御本部に行かれて、そして四神様のいわば身の回りの御用などを一生懸命なさった。それこそ四神様としても、御寵愛を一身に受けて居られると云われる程しに、手篤い実意丁寧な信心をなさった方らしいですね。
 ですから大変おかげを受けられた。もう四神様の書かれた物は、岡本さんの所へ実は岡本駒之助と、芸名は中村駒之助と言ったんですね。と云う程しに四神様のお書きになったものは、岡本家にあると云われる位に御寵愛を受けられた方なんです。四神様がお亡くなりになって、御本部に住まいを作られました。まあそれは大変な贅沢なお家だったそうですね。それこそ紫檀黒檀の家具、所謂紫檀の茶箪笥を後ろにして、玉露のお茶をすすらせて頂いて居られる程しの贅沢が出来れる様なおかげを受けておられた。
 ところが、ある時に、桂先生が頂かれたのは、岡本駒之助徳切れと頂かれた。四神様御在世中は、四神様のお徳で、こうしておかげを受けたけれども、四神様が亡くなられたら、まだ四神様のお徳で支えられて居ると云うことを気付かずに、自分のいわば信心、自分の財産、自分のいわゆると云う様な気持ちが出られたんでしょう。あんまり贅沢三味の生活の中からです やっぱり、徳が切れていった。
 いわゆる岡本駒之助徳切れとなる。それで、ある時の御本部参拝の時に、丁度、駒之助さんの所の前を通られる時に、その事のお知らせを受けられて、その事を岡本さんに忠告された。ああたはあれ程しの四神様の御寵愛を受けられたお方だから、ああたはどうでもお道の教師になりなさらにゃいかんち。ただ安気安穏で、それこそ紫檀黒檀の家具に取り巻かれる様にして、美味しいものを食べたり、玉露をすすって贅沢、云うなら安気安穏の生活をして居られるけれども。
 四神様の願いはそうじゃなかったに違いないから、お道の教師になれと云うて勧められました。ところが、なかなかそれが、うんとこう聞かれなかった。その事をですね、今の亡くなられました三代金光様が、まだお若い時です。四神様の亡くなられた後ですから、御結界に出られてからです。金光様に桂先生が仰って居られるですね。世の中には、それこそ安気安穏に、それこそ紫檀の茶箪笥を後にして、玉露をすすって贅沢な暮しをして居る者がありますと。
 後ろから、それこそ山津波の様にです、一飲みにそれをして居ると云った様な事を知らんで、迂闊にして居る氏子が有りますなぁと云うてから、金光様に申し上げたら、金光様が仰ったそうです。あぁあの氏子か、あの氏子はもう詰まらんと仰ったそうです。あぁ、あの氏子か、もうあの氏子はもう詰まらぬと仰った。それからもう瞬く間ですね、東京に取引されていた銀行が潰れましてね、財産の殆どが無くなった。
 それこそ後ろからね、それこそこう津波が打ち寄せて来て一飲みにしようとして居ることが分かる。いわゆる障子一重が侭ならぬ人の身なのです。だからそこをお気付受けられて、桂先生が進言をされましたけれども、それを聞かれなかった。けどももうその時、既に、金光様はそれを見通しであった。あぁ、あの氏子か、もうあの氏子は詰まらんと仰った。もう間もなく銀行が倒産、銀行が倒れた。
 そこでその預金してあったお金は、全部無くなって仕舞った。それからあただにです、お道の教師を志されて朝鮮の釜山に教会を持って、あちらの布教に出ろうとされた時には、もう何かにつけて手違いばっかり起こる。とうとうあの朝鮮に渡られることが出来なかったと云う話が残っておる。徳切れと云うことは怖い。親の代は、親がそれを支える力を持っておる。
 子供は安気安穏、その財産に寄り掛かって仕舞うて、徳を積もうともしない。又減らしてはならんと云う精進もしない。だから持ちこたえが出来ない。そういう様な事がです、例えば私共には分からん。障子一重がままならぬ。だから私共が何時も心がけさせて頂いておらなければならないことはです、御理解三十一節にあります様に「信心する者は木の切株に腰を下ろして休んでも、立つときには礼を云う心持ちになれよ」と云った様な信心が必要になって来る訳です。
 どのような事柄の中にでも、それこそなあにもならんと思われる様な木の切株に腰を下ろしても、立つ時には礼を云うような心持ちにならなん。と言うて、ほんなら使用人の方達が一生懸命働いて下さって居るのですから、ほんとに一日御苦労さんと云う気持ちがなからにゃいけない。そら使用人だけの事じゃありません。だからそういう全てのものにです、木の切株に腰を下ろしても、立つときには礼を云う様なその心持ちがある限りです。私共は謙虚でおれれると思いますね。礼を云うことを忘れる。
 私は一番怖いのは、人間が思い上がった時だと思うですね。いわゆる慢心が出た時です、その慢心が思い上がりがです、自分自身には分からん。自分が気が付かんまんまに思い上がってるんですから。人の事ならすぐ分かる。増長すると云うかね、そういう姿は見苦しい。私共が何時も心がけさせておかなければならない、いわゆる、慢心が大怪我の元なりと仰る。慢心が出たら怖い。
 徳が切れていきよっても、それに気が付かない。そこで私共がです、木の切株に腰を下ろしても、立つときには礼を云う様な心持ちを、平生にです。全ての事にお礼が言えておる自分であろうかと、何時も自分を見る。そこに自分の慢心の影と云うものがもう出様がない。私、何時も私と云うものは、それこそ浜の真砂の一粒がたもない、私であると云う自覚、只あるものは信あるのみだと。
 だからその信があるところからです、いわゆる確信なのです。そういう時に、ちょっと間違えますと、私が言よることに間違いはない、間違いがあろうかと云った様なものが、思えたり言えたりすることは有難い。けれどもそれが、慢心である様な場合もある。だから如何にその確信と云ってもです、それが私共がいつの間にか思い上がりの衣を着てしまっておる様なことがありますから、用心しなけりゃいけません。
 勿論信心さえしてばっかりには、この信一つがです、いよいよ強うなっていく稽古をすることではありますけれどもね。それでもです、だから私は何時も、例に申します様に、私は、親鸞上人様と日連上人様の例を以って申します。私の信心の内容にあたって、そういう様なものを、自分に何時も頂いとかにゃならない。場合に依っては、それこそ日連じゃないですけどもね。
 佐渡島に流される時に、それこそ、海が大荒れに荒れておった。その時に、空に南妙法蓮華経と書いて、今から日連が佐渡に渡るのだと云って天地に向かって叫んだ。海が平靜になったと云う話があります。その位に思い上がりの様にまで思われる様な、一つの信念と云うものを持って居った人らしいですね。だからあれだけの荒い布教が出来た訳ですね。そういう様な傾向が、今の例えば創価学会なんかにも表れて居りますから、実に見苦しいでしょうが、見とってから。
 それ程しのものを頂かずに、それを云うからでしょうね。かと云うて一方そんなら親鸞上人様の方はどうかと云うと、それとは全然反対なんです。もう御晩年になられた頃にはもう、自分は世界一の大悪人だと云う様な風に、自分の事を云って居られます。だからそういう、いわば自分を見極めるギリギリの心と、又は信心に依って生まれて来るその信の一字と云うものがです、段々いわば確信と云うところまで高められて行く様なおかげを頂かせて頂かにゃならんと私は思うです。
 ですから、そういう二つの内容がね、信心にはなからなきゃならんと思うんです。それでいても、何処からか、やはり慢心が頭を覗かせる。それが私共人間凡夫です。だからよっぽど心掛けして頂かんと、見苦しいまでに慢心が出て参ります。その慢心が怖い、思い上がりが怖い。そこで私共はですね、何時もそれこそ木の切株に腰を下ろしても、立つときには礼を云う様な心持ち。
 全ての物に感謝を捧げると云う様なその心持ちがね、何時もその内容としてなからなければならないと云うことであります。障子一重がままならぬ人の身ぞもう私は本当に御神訓の中でも好きな御教えです。だからここでは障子一重向こうに居る人の姿が見えると云った様な意味の事ではない。是は信心の愈々根本姿勢であって。所謂一切人間には、何一つとして自分の力を以って出来る事はないんだ悟る事。
 自分の力で出来るならば、自分の力でやってみりゃいい。例えば私の父が、ここ十日余り休んで居りますが、自分で起き上がりはきりません。自分の力でない証拠なんです。お前、自分の力で起き上がってみろち言うたっちゃ起き上がりきらん。むじむじするだけ。実を云うたら、むじむじすることすらがです、実際はね、自分の力じゃ出来んのです。神様のおかげを頂かなければ出来んのです。
 それなのに自分が俺が、とこう云う様な心が出て来る所から、所謂豪慢無礼な生活になってしまう。そしておかげを落とさなければならない元が出来て行くのであります。どうぞ一つ、お道の信心させて頂くなら、先ずここん所が本当に分かる。障子一重がままならぬ所では、貴方のおかげを頂かなければ立ち行かんと云う思いが、愈々強うなっていかなければいけんと思うですね。
   どうぞ。